歴史を学ぼう

 

history2.jpg (3707 バイト)イングランド教会の宗教改革小史
           

  

  1. イギリス諸島が初めてヨーロッパ世界に組み込まれるのはBC55年ユリウス・カイゼルの侵攻に始まる。Ad401年までローマの支配下にあった。伝説によればパウロやピリピが来英したというが、正確な事はわからない。恐らくローマの兵士、役人、あるいは貿易商人がキリスト教を伝えたと思われる。
                     
          
  2. AGOSTINHOの来英までの間の有名な宣教者はST.NINIAN(360―432)(BRITONSの間での宣教で有名)、ST・PATRICK(386―461)(アイルランドの宣教で有名)で二人はフランスのツール地方の聖マルチヌス修道院で訓練を受け、独特の修道会制度をイギリスに導入した。それは、ローマ型の主教区と併存する修道院制度ではなく、統治権を持たない主教たちが大修道院長に従属する仕組みになっていた。院長の命令一下、イギリス各地に修道士は布教の旅に出かけ、BURITEN人の教化に努めた。
                    
  3. 401年ローマ軍が撤退した後、アングロ族、サクソン族といったゲルマン諸民族が殺到し、各地で教会を略奪、破壊し、キリスト者の多くは迫害を逃れ、パイースデガァラの山間部やアイルランド、スコットランドに逃れた。
                         
       
  4. ローマ・カトリック教会のイギリス布教はグレゴリオ1世によって計画された。580年グレゴリウスはローマの奴隷市場で金髪で青い目の少年数人を見つけ、どこから来た、問いただしたら、「アングロ族」と答えたので、「アングロではなく、アンゲリ(天使)だと」と言ってブリタニアに自ら宣教に赴く決心を固めた。しかし、グレゴリウスが同じ年、ローマ主教に選ばれたので、イングランド伝道は聖アンデレ修道院長の後任アウグスチヌスに託された。
                           
            
  5. 1066年ウイリアムス王が英国に侵攻し、英国を統一、それまでのブリテン人、アングロ人、サクソン人、ディーン人、ノルマン人、をイギリス人に纏め上げた。
                            
  6. ウイリアムスがイギリスを征服した時点で、西ヨーロッパでは封建制度を確立し、キリスト教化されたゲルマン諸民族が教会による指導、管理を脱して、歴史の新しい舞台で主役を演じようと望までに成長していた。各地で教会と俗権が聖職者の叙任権(INSTALACAO、INVESTIDURA)(聖職按手とは違う。皇帝または世俗の君主が、高位聖職者に、その受ける世俗の領土や権利を賦与する印として、指輪とバクロを持って任命する事)、教会による課税と土地保有、聖職者に対する課税をめぐって争う時代が到来していた。
                            
  7. グレゴリウス改革と呼ばれる教会改革運動は、1073年にパパになったグレゴリオ7世(1073―1085)が、俗権に対する法王権の優位の確立、修道生活の刷新、一般聖職者の資質の向上などを目標にした運動であった。ウイリアムス王はグレゴリオの意図を十分に知っていたが、自分が軍事力で征服したイングランドを、政治的にはむろんの事、教会的にも支配する決意を固めていた。国家の首長は当然教会の首長であるとも主張したウイリアムスは、主教や大修道院長の任命に法王が干渉する事を拒否し、自分の同意なしにイングランドの聖職者や信徒が破門されたり、だれであれ法王書簡をイングランドに持ち込んだり、イングランドの主教が国外に出る事を一切認めないという強い態度を示した。グレゴリオ改革の最大目標であった叙任権(INSTALACAO)に関する限り、ウイリアムスは自分の主張を曲げなかった。宗教改革時にイングランドの教会が法王至上権を否認するあたって前例として持ち出したのがウイリアムスによって主張されたイングランド教会「古来の自由」であった。
                           
  8. 聖職者裁判権―ウイリアムス1世によるイングランド征服後、教会裁判と世俗の裁判が分離された為、聖職であることを証明しうるものは、世俗の裁判所での裁判を免れることが出来るようなった。主教、司祭、執事の上級聖職はもちろん、下級聖職(副助祭、アコリト、インセンセイロ、レイトール、グアルダ・デポルタン)も聖職裁判権の恩恵に浴した。極端な場合は、詩篇51編1節をラテン語で暗唱出来るものや、剃髪したものまでが聖職裁判権を主張して混乱を引き起こした。宗教改革時には、反聖職主義を引き起こす原因ともなった。この権利自体は1827年まで存在した。
                          
                             
  9. ウイリアムス王の後を継いだ2世ルーファスは父と違って教会の平安発展には関心が薄く、教会をただ収入の対象と見ていた。cantuariaはイングランドでは最も裕福な教区であtったから、ウイリアムス王の死後、2年目に同じく死んだLANFRANC(1070―1089)の後継者の任命を出来るだけ引き伸ばして、ARCEBISPADOの収入を自分の懐に納めた。ANSELM(36―1093―1109)がLANFRANCの後任として任命されたのは4年の歳月が流れた後であった。それもルーファスが病気になって、死ぬかもしれないというおそれから、慌ててARECEBISPOを任命した。ANSELMはLANFRANCと違い、グレゴリオ改革の心からの信奉者であり、王権に対する法王権の優位を主張したが、イングランドの主教たちは必ずしもANSELMの主張する法王至上権を認めず、王の肩を持ったため、ANSELMはカンタベリの大主教としてはほとんど追放の身で、不遇の時を過ごした。
                                     
  10. CLARENDON憲法

    CLARENDON会議(1164)において設定された16条からなる法。教会裁判所に対して国王裁判所の権限を明確化するなど、教会と国家の法的関係を定めたものとして、英国教会史上大きな意義を持つ。BECKETは初め、この法案に同意したが、後に署名を拒否したため、ヘンリー2世との間に争いをもたらした。ベケット自身もヘンリーの不興をかったのでイギリスに止まる事が出来ず、ローマに逃げた。1170年やっとヘンリーとの和解が成立し、カンタベリーに戻る事が出来たベッケトはヘンリーに組して彼に背いたヨーク大主教、ロンドン、ソールズベリー主教を破門にした。ノルマンディーでこの知らせを受けたヘンリーは怒りを爆発させたが、王の怒りに誘発された4人の騎士が英仏海峡を渡ってベッケトを大聖堂の中で殺害した。ベッケトの廟は中世の巡礼の対象地であった。
                         

  11. クランマーとクロムエルの助言を入れ、英訳聖書の公認を約束し、1538年9月がGREAT・BIBLEの備え付けが全国の協会に命じられた。発見されるや没収されてきた、ティンダル聖書が、今や公認聖書となり、庶民の読みうるものとなり、イングランドの民はミサを眺める中世人から、「書物の民」として近世史に登場するようになった。
               

  12. 第一祈祷書

    1549年1月21日、イングランド教会の最初の祈祷書が「礼拝統一法」の可決によって日の目を見た。クランマー自身の筆による序文によれば、祈祷書作成は国民の理解しうる言葉による、全国共通の礼拝の確立と、カトリックの伝承に立ちつつも、非聖書的な要素を排除した簡潔な礼拝式文の設定を目的としていた。祈祷書による礼拝は、会衆がただ「眺める」だけであったそれまでのラテン語によえうミサを、会衆が積極的に参加し、キリストの体と血に「あずかる」交わりの式に変えたのである。古今東西の教会礼拝の長所を取り入れ、当時の最新の礼拝改革を参照にした「第一祈祷書」は礼拝学的に見れば、優れた祈祷書であったが、作成の時点では、保守・革新のいずれもを満足させず、一般大衆にとっても不満足なものであった。保守派には、英語の使用そのものが神への冒涜と映ったし、反対に革新派にとっては、この祈祷書は依然としてローマ・カトリック教会の「腐敗堕落」に満ち満ちていた。長年、受動的に、理解し得ない言葉によるミサを「眺めて」来た庶民は、それだけで救いに十分であると考えていたので、「ピンポン・ゲーム」のような祈祷書による礼拝には有り難味を感じなかったのである。
                  

  13. 第二祈祷書

    1552年4月、議会は「第二礼拝統一法」を可決し、よりプロテスタント的な新しい祈祷書の使用を、その年の諸聖徒日からと定めた。これ以後、英国教会、全世界の聖公会の祈祷書の母体となったのは、この「第二祈祷書」である。イングランド教会をカトリック教会の枝と規定した「第一祈祷書」と対照的に「第二祈祷書は」国民教会としてのイングランド教会を強調している。「ミサ」「祭壇」「犠牲」といった言葉は全て削除され、中世末期のローマ・カトリック教会の「迷信的」慣習、動作、服装、装飾は全て禁じられた。祈祷書から保守派がカトリック的解釈が可能と判じた部分は全て変更されてしまった。祈祷書による礼拝は国家への忠誠と国民的統一を保証する、外面的な枠の機能を果たした。それなればこそ、エリザベス女王の時に、カトリック、ピユリタン両派から、良心の名において、形式的、強制的礼拝参加への抵抗が示されるようになる。
                

  14. MARIA1世が登場すると、CRANMERはロンドン主教ニコラス・リドリ、ウースター主教ヒュー・ラティーマと共に投獄され、二人は1555年異端者として火刑にしょせられ、1556年2月14日オクスフォードのクライスト・チャーチ(OXFORD教区の大聖堂を兼ねていた)で聖職位剥奪式が行われた。司式者は、かってクランマーの改革路線に反対してロンドン主教位を剥奪されたエドマンド・ボナーであった。3月21日オクスフォード聖マリア教会の中で処刑が行われた。彼は獄中6回の転向声明文に署名していたが、この日も最後の声明文―法王の意志に反してヘンリーの離婚を認め、イングランドの教会をローマより離反させ、カトリックの教え、特にミサに関する教えを否認した罪を悔い、ルターやツイングリの教説を異端と否認―を会衆に読み上げ始めたクランマーは、それまでの力のない調子とは打って変わって、声明文に記されていない事を語りはじめた。これまで6回にわたって転向声明文に署名してきたのは、死に対する恐怖によるものであって、自分は良心に反して真理を否定した。最後に「私の心に反して、私の手が転向声明文に署名したのであるから、まずその手が罰せられるべきである。私が火に付される時、私の手が真っ先に焼かれるであろう」と叫んだ。あわてた獄吏によって教会堂の外に引きずり出され、木に鎖で括り付けられたクランマーは燃え盛る炎の中で右手を差し出すようにかかげ、「この手が私を躓かせた」と叫びながら67年の波乱に満ちた生涯を終えた。
                    

  15. 第三祈祷書

    国民の期待と不安の中に登場したエリザベスが選んだのは、カトリックとプロテスタントの両極端を退ける第三の方向であった。「エリザベスの宗教解決」と呼ばれる女王の宗教政策は、イングランドにおける宗教改革を恒久的な形で定着した。
              

  16. 1559年議会において可決された「国王至上法」と「礼拝統一法」は女王の45年にわたるレイナードにおいて、左右両派から抵抗が示された事は、この宗教解決が出発の時点から、二者選択を求めていた左右の宗教人を満足させるものでなかった事を示している。エリザベスの「礼拝統一法は改革派の期待を裏切って、1552年の「第二祈祷書」をやや保守的な方向で改定した第三祈祷書とエドワルド6世に用いられた聖職服の着用を義務づけた規定からなっていた。

(八代崇著「新・カンタベリー物語」より抜粋)

 

 

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「イングランド教会の成立とヘンリー8世の離婚問題」

    
             
当時、ヨーロッパの諸国王・貴族の「結婚解消」は珍しいことではなく、ローマの許可を得て、今で言う「離婚」「再婚」は現実にありえたのでした。ところがそのヘンリー8世が「結婚解消」したい后はローマ教皇(クレメンス7世)も頭があがらない当時の最大強国スペインのカール国王の叔母でした。この為、ローマ教皇の許可が得ることが叶わず、その結果、英国聖職会議および国会の許可を得るという正当な手続きをへて、「結婚解消」をするとともに、ローマの政治・経済・租税支配から独立を図り、英国における「国王至上権」を確立した「国家の行為」と考えるべきと多くの歴史家は考えています。
                
この問題に関しては邦文では、故八代崇立教大学教授がその著作「イギリス宗教改革史研究」(創文社刊)の中に「離婚問題の推移と国王至上権の確立」(P.73−P.94)と題して詳しく書かれています。以下はそれからの要約です。
            
「ヘンリー8世の結婚解消問題は英国教会のローマよりの離反のきっかけであったが、直接の原因であったとは言い難い。1529年に教皇庁が結婚解消の訴えに対して判決を下すことを拒否してから、議会が立法措置によってローマからの離反を確定するまでには5年近い年月が経過している。離婚の成立は、むしろローマからの離反が進められる過程で可能となったと言える。厳密な教会法上の言い方をすれば、「離婚」は存在しない。 あるのは「結婚解消」である。 
              
ヘンリーが教皇庁に要求したのは王后カサリンとの結婚に対する無効宣言であり、結婚が始めから存在しなかったことを証する判決であった(このことは現在に至るまで変わらず、今でもカトリック教徒はバチカンの正式な審議を経て「結婚解消」宣言を得ることは可能)。ヘンリーは結婚解消の理由をレビ記で禁止されている(18:16)兄弟の配偶者との結婚であったとして、その無効を訴えた。
        
ヘンリーがいつ頃からカサリンとの離婚を考えたかはわからないが、アンとの恋愛はカサリンとの離婚の直接の原因というよりは、すでに離婚の意思を固めていたヘンリーに最終的決断を促したと言うべきであろう。
定説としては、嫡子である男子継承者待望がヘンリーの離婚要請の真の理由であったとされる。。。ヘンリー・テュダーがテュダー王朝を創立してからまだ40年を経ていなかった。ヨーク家の血を継ぐものはまだ生存しており、王位継承をねぐる争いを防ぐには男子の嫡子が不可欠であり、カサリンからはもはやそれを得る可能性が薄れていた。
             
1527年5月のスペイン軍のローマ占領によって教皇クレメンス7世の立場が弱体化し、神聖ローマ皇帝でありスペイン王であったカール5世はキャサリンの甥にあたり、クレメンス7世はカールの怒りを買うような判決は下し得なくなった。
          
1529年6月、バルセローナ条約によってカール5世とクレメンス7世の間に和
解が成立し、クレメンスはますますヘンリーに譲歩しえない立場に追い込まれてしまった。同年7月22日,遂に教皇特使法廷はヘンリーの結婚解消の訴えを審議未了のままで閉廷し、その数日後、ローマに出頭することを命じた教皇クレメンス7世の命令が正式に手渡された。すでにフランソワ1世とカール5世の間にも和解が成立していたことを知らされたヘンリーは、全ヨーロッパで唯一人孤立した事実を否応なく認めざるをえなくなり、結婚解消を教皇による裁定でない方法で達成する決意を固めた。  
一方、ヘンリーの動向に警戒を強め始めたクレメンスは、1530年12月、カン
タバリー大司教ウオーラムに対してヘンリーの結婚解消訴訟の受理を禁止し、全ての女性に対してヘンリーとの結婚を禁止した。
              
1532年8月、ヘンリー路線に頑強に抵抗し続けたウオーラム死に、カンタベ
リー大司教位が空位となると、ヘンリーはカトリック教会の正式な手続きを経てクランマーをカンタベリー大司教に任じた。1533年5月23日、クランマーはヘンリーとカサリンの結婚の無効を宣言した聖職会議の決定を受け、ヘンリーとカサリンとの結婚が始めより無効であった旨を宣言し、同時に1月に密に行われたヘンリーとアンの結婚正当性を承認した。
               
離婚問題の恒久的な意義は、それが西方教会の首位者によってではなく、イングランドという国民教会の最高位者カンタベリー大司教の法廷で決着をみたことであろう。この時点からイングランドにある教会(Church of Englandの
本当の訳)は、イングランドの外にある教会の権威に服さない国民教会としての歩みを始めるざるをえなくなった。
            
歴史家Powickeはイギリスの宗教改革を「国家の行為」と規定する。
イングランドでは改革が正当な法的手続きを経て行われた点で大陸における改革の経緯とは著しし相違を示している。宗教改革は運動としての性格を強く持っていたため、現実の展開においては既存の法秩序を超えるのが普通であった。ひとりイングランドにおてだけは、ローマからの離反も、教会の教義。礼拝方式の変更も(これは現在にいたるまで行われており、1992年英国教会が女性司祭を受け入れた後、効力を持つまでには議会の承認を必要とした)ローマへの復帰も、ローマからの再離反も、すべて君主の先導により、議会の立法措置によってなされた。教皇至上権に代わる国王至上権の確立も、まさにこのような立法措置によって達成された国家の行為であった。」    「(  )内の文は伊東が付加したもの」

    
(アングリカン教会の離婚に対する考え。)
アングリカンと言っても各管区は独立しており、独自の法憲法規(教会の憲法・法律に相当するもの)持っている。しかし、ほとんどのアングリカンの教会では離婚者の教会での再婚に関しては主教の裁定を条件に、少しのニューアンスの違いはあっても承認している。
                
例えば日本聖公会では法憲法規では:
「聖婚式は、その成立に関する準拠国法に反しない結婚について、執行することが出来る(190条)」としながらも、「結婚の解消」に関しては「結婚は、配偶者の死亡により解消する」と規定している(193条)。しかし、旧法では国法に従って離婚した者が再婚した時は自動的に懲戒されていることになっていたが、現法では「離婚に関する準拠国法に基づき離婚した信徒が、相手方の生存中に他の者と再婚しようとするときは、所属する教会の牧師を経て教区主教の裁定を受けなければならない(194条)」と規定している。そしてこの裁定を経ず再婚したものは懲戒される、としている(194条2項)。
(ブラジル聖公会法憲法規では懲戒規定はない)。
           

 

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