心のメッセージ



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「主よ、来りませ!」  (ヨハネ黙示録 22:20)
                  
私の兄弟であるこの最も小さい者 (マタイ 25:31-40)

信仰の序列?質と量の序列の排除  (マタイ 16:13-20)

からし種とパン種 (マタイ 13:31-33; 44-49)

目線を変えてみよう - イエスとニコデモ ( ヨハネ  3:1-17)

私が来たのは羊が命を受ける為 (ヨハネ 10:1 - 10)

最も重要なおきて (マタイ 22:34 - 40)

 


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「主よ、来りませ!」  
  ヨハネ黙示録 22:20


今日は「神のみ子の受肉」と聖書に約束された「主の再臨」が、私たちに限りない喜びを与える、このクリスマスの意味を共に考えて見たいと思います。

1999年も終わろうとしています。そして新しい世紀を後わずかで迎えようとしています。年の瀬のなにかとざわめきの多いこの生活の中で、わずかな時でも良い、そのようなあわただしい時から一歩離れ、静かに深く神と出会い、「神がその独り子を
世に遣わし、死なしめることによって私たちを救おうとされた」「そして主は再び来りたもう」というクリスマスのメッセジが教会暦という形を持って、今、私たち一人一人の魂に展開されようとするのは、この上ない恵みの時であると思います。
  
「マタイによる福音書1の23」に「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は{神は我々と共におられる}という意味である」と書かれています。また聖書の最後が「主イエスよ、来りませ!」という祈りで終わっています。「神が私たちと共に居られる」「主が再び来られる」と言うこのクリスマスに関連した聖書のメッセージを皆さんはいかに今、お聞きになっておられるでしょうか。主の受肉と再臨こそがこのクリスマスのメッセージであるのです。

しかし、現実の世界はむしろ「神不在」を証するばかりです。これでもか、これでもかと繰り返される人間の蛮行、愚行、身勝手さ、醜さ。2000年という新しい年を迎えようとしている今も、新しい世紀に手放しの期待と希望を持てないこの人間世界
の現実。旧約の世界から一歩も人間として成長したことを、示す何物をも持たない私たち。この私たちに、今年も「神我々と共におられる」「主は再び来られる」という神の語り掛けが、今日も繰り返し述べ伝えられるのです。

この「受肉」とは神様が愛するみ子を、大きな「痛み」を持ってこの世に遣わされ、神が脆くて弱く、罪に傾きやすい私たちの人間性の中で、人間の持つあらゆる状況をそのまま、一切の条件を付けることなく受け入れられた、という事であります。イエ
ス・キリスト様を最も深く理解し、表現しえたパウロは「すると主は{わたしの恵はあなたに充分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ}と言われました。だから、、キリストの力が私たちの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さ
を誇りましょう…なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」(2コリント 12:9―10)と書いています。

自らの弱さと脆さといい加減さに落ち込む私たちに、パウロの言葉はその落ち込みから立ち直らせ、その上にキリストの降誕に根ざす明るい柔らかい、しかしなにものによっても遮られる事のない光線が私たち一人一人を照らします。

私たちはただ、自らの弱さを、脆さを、いい加減さを、知る事が必要なのです。弱さを、脆さを、いい加減さを、心から認め、自らの存在の全てを主のみ手に委ねる時、キリストの力が私たち一人一人に宿り、弱い私が、主の支配を受けた新しい、強い私
に作り変えられるのです。古い私は死に、新しい私に作り変えられるのです。主の十字架と復活が私の出来事として、今、私の内で起こるのです。そしてパウロのごとく、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられ
るのです」(ガラテヤ2:20)という信仰告白をなさしめる恵みを与えてくださるのです。

「受肉」と「再臨」という教義はまさしく、この事実を私たちが実際にそうであることを、気づかしめます。
受肉という歴史的な一つの厳粛な事実を通して神は人間と関わり、御子を死に渡すためにこの世に生まれしめるという事実を持って、神様はイエス様を通じて、この世界に溢れるような慈愛を注がれました。それは福音書の全体におよぶ私たち
一人一人への語りかけであります。私たちの生活は、人生は、家庭は、この神の溢れるばかりの慈悲によって包まれているのです。

エマウへの道で弟子たちは、同行する「隠されたイエス」を認識しえないにもかかわらず、イエスは失望のどん底にあった弟子たちと共に歩んでくださっていたのです。この神の慈悲を身をもって知覚するところから、クリスマスは真に私たちの内に始まるのです。

したがって、私たちはどのような孤独や失意にあっても、また、世の過酷な現実を直視することを余儀なくされても決して、神の臨在とこの世にいます「隠れたイエス」の存在の欠如を感ずる事はないのです。私たちが意識するずっと前に、この神の慈愛によって包まれていたのです。神がまず私たちを愛してくださったのです。そして、その事によって神の慈愛を知ったのです。
この愛に包まれている現実を知覚する時に、私たちは初めて人を「隣人」として受け入れ、人の悲しみを、重荷を知り、共に担おうと努力する人間に、神が創造された本来の人間に作り変えられるのです。そして、神の愛を反射しうる「神の似姿」に少しだけでも近づくのです。

イエス様の受肉はもう一つの大切な事を私たちに語り掛けます。イエス様が私たち一人一人の人生に、生活に来られる時、私たちの内にある全てのものが「絶対性」を失い、「相対的」になります。私たちが、こうでなければならない、こうあるべきだ、
これは正しいとか、意味のあることだ、価値のある事だ、としきりに口にしている事が、真の「道、真理、命」であるイエス様の前に晒されますと、それらの全てが漂白剤に漬けられた布のごとく、なにもかも色あせ価値を失って行きます(フィリピの信
徒への手紙2:10)。また、「主イエスよ、来りませ」(ヨハネ黙示録22:20)と呼びかけ、祈る時、私たちは自分の内にある、自らの見識や、思想や確信、経験や、愛憎やねたみ、誇りや自尊心といったドロドロとした全てのものがイエス様によって、相対化される事を祈っているのです。

私たちの中には神様を忘れさすような自我ーエゴイズムという強力な力が私たちを支配しています。私たちは神の支配に服するのではなく、自我に服しているのです。自我を神としているのです。その私たちを支配する自我から解き放たれる為には「受肉という神が自らをヘリくだたれた厳粛な事実」を受け入れた後、「主イエスよ、来りませ!」と自らの存在に主の再臨を求め、心から神に祈る時、初めて私たち人間が、あるべき場所に戻ったことを実感出来るのであります。

アメリカで販売されたカッセト・テープで、「清し、この夜」のクリスマスの歌をバックに、アナウンサーの読み上げる7時のニュースが絶妙にコントラステをなしているテープを聞かれた方も多いと思います。イエスが2000年も前にお生まれになった事。にもかかわらず、世界はそれを否定し、否定しなくても無視し、イエス様をいつの時代にも悲しまさせててきた人間。クリスマスを前にして、トルコや台湾の地震で亡くなった多くの方の家族は、チェチェニアに対するロシアの攻撃で亡くなった市民の家族は悲しみの内に今年一年を思い返しておられる事でしょう。
現実の残酷なまでの人間のありかたに失望して、多くの方が神への信頼をなくしました。にもかかわらず、クリスマスのメッセージはこの世の中の主の臨在を告げて止まないのです。この現実は実に私たちの神への不信の結果なのです。真の神を神としない「偶像礼拝」がその原因であり、悔い改めようとしない私たちが神を悲しませているのです。神は痛みを持って、私たち一人一人を愛してくださいました。にもかかわらず、私たちは神から離れ、真の神でないものを絶対化し、争い、ねたみ、憎んできました。

受肉とはご降誕の歌を背に、今、ここで生起し続ける出来事を懸命に語り掛けるアナウンサーの一つ一つの報道であります。神様は人間の現実の哀しみの中に来ておられるのです。神は戦争や汚職や、破壊や憎悪の愚かしい人間の行為の中にも、一人一人の悔い改めを待って、待機されおられるのです。神様は人間が創造したり、あるいは破壊してきた文明の中にもかならず臨在されたし、これからもされるのです。そしてこの私たちが生まれ、かつ死にいく一生の数々の事件の中にも来られるのです。悔い改めなしに、主を自らの人生にお迎えすることは出来ないのです。

私たちが敬遠する生の状況や世界の混乱の中にすら、受肉されたお方の希望と救いが私たちの認識し得ない場所で、隠れた形で、今も絶えることなく醸成されているのです。良質のぶどう酒が樽の中で誰の助けも得ずとも自然に醸成されるように。真の愛と真の希望は、そして主による救いは人間のこの醜い社会の中でも、自然に醸成されているのです。主イエスは既に「隠れた主」としてこの世に、私たちの生活に現臨されているのです。悔い改めの心と、魂の目を持って見るとき、その主を認識しうるのです。

ベツレヘムは古い昔から今にいたるまで、牧歌的とは程遠い、絶えずきな臭い戦争や破壊、騒乱が絶えなかった土地でした。「シャローム」という言葉が挨拶言葉になるほどに、平和は待ち望まれ、平和から遠い現実が中東の歴史だったのです。他の場所ではないまさしくこのベツレヘムに、イエス様は神の子として御生まれになったのです。
私たち一人一人に真の慈愛を示し、その慈愛で私たちを贖うために。そして私たち人間がその慈愛に倣う者となるために。
そして受肉によって私たちを包む慈愛に感謝する時、また、私たちは自らを空じて、イエス様のみを唯一の主として、心から「主イエスよ、来りませ」と祈る時、初めて自らの人生に主イエスをお迎えする準備が整ったのです。

(99・12・19 クリスマス説教 伊東)


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私の兄弟であるこの最も小さい者」 
マタイ 25の31−40

以前、NHKの教育テレビがこんな番組を放映しました。

「ある農家で老夫婦が2歳過ぎの孫と一緒にテレビを見ていた。画面に飢餓に苦しんでいるアフリカの子供達が映った。目ばかりが大きく、お腹は膨れ、体は痩せ細ってまるで骸骨のように見えた。一緒に見ていた孫は驚いた面持ちで、じっと画面を見つめていた。祖母はその子に{坊や、あの子たちは食べるものが充分なくて、あんなに痩せてしまったのだよ}と言って聞かせた。すると孫はさっと、テレビの前に走りよって自分の持っていたクッキーをその子に食べさせようと一生懸命に画面に擦り付けた。それを見て祖父母はいたく感動して、涙さえ浮かべた。この老夫婦は幼い孫のけなげな態度に強く打たれて、{私達も何かしなければ}と話し合った。相談の結果、彼らの持っているとちの一部を抵当にして、相当額の金子を借りて、しかるべき方法で飢餓に苦しむアフリカの子供達のためにと、献金されたという事です」。

ただ今読まれた聖書はイエス様の言葉として、「神様の子であるこの最も小さな者の一人にしたのは、神様にしたことなのである」と語ります。つまり、神を信じ、神に従うのは取りも直さず、イエス様の言われる「最も小さな者」に尽くし、仕える事そのものなのです。

この譬えは「キリストを知らなかった人々は裁きの日に、どういう基準で裁かれるのであろうか」という疑問に対する、キリストの解答と見なす事が出来ます。そしてその解答は困っている人や、見捨てられた人に示した愛の行為による、というのです。神の前にはキリスト者であるか、仏教徒であるか、天理教徒であるか、無神論者であるかは問題ではない、とイエス様は仰るのです。神の前に最も大切なことは、いかにあなたがあなたの出会う最も小さな者を愛したか、が問題である、と言われるのです。そしてその愛を述べ伝える事が宗教の根本理念である、と言われているのです。

ここで「私の兄弟である最も小さい者」と訳されているギリシャ語の原語は慎ましいもの、取るに足らないように見える者、つまりハンディキャップを負った者を意味します。私達一人一人はその人生において、毎日の生活の中で、あらゆる種類のハンディキャップを背負った人々に出会う。そしてこのような人の痛みのごく一部でも共有し、愛を持ってその方々に仕える事が「神を愛する事であり、神に仕える事である」とイエス様は言われているのであります。他の言葉で申し上げれば、このような人々を通してイエス様は「隠れたメシア」すなわち「キリスト」として私達に出会っておられるのです。真に神を礼拝する事は、教会や神社やお寺にお参りすることではなく、社会に出て行きこれらの人に出会うことによって神に出会うことなのです。マザー・テレサは世間から見捨てられ、身も心もズタズタになって路上に倒れ伏し、死の直前の浮浪者の膿まみれの体を拭き、「あなたも、私達とと同じように、望まれてこの世に産まれて来た大切な人なのですよ」とマザーは語りかけながら、もう一度力をこめて手を握られました。マザーは「人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間だ、と思い込むことだ。そしてまた、現世の最大の悪は、そういう人に対する愛が足りないことだ」と繰り返し、繰り返し言われました。

光田八千代姉妹を知り、最も親しい教会員の一人として接して、約15年が過ぎました。最初にお会いしたのは「やすらぎホーム」で寮生に対して手書きの大きな画用紙にに書かれた歌集で歌唱指導をなさっておられる、自らが喜びに満ちた姿でした。姉妹がどのような事から社会福祉に大きな足跡を残されに至ったかは存じません。その根底には「恵まれぬ人々に対するかぎりない愛」があった事は疑いのない事実です。クリスチャンだから愛の行為をしなければ、と言った義務感からではなく、精神障害児であろうと、老人であろうと、だれであろうと自分の小さな働きを必要としている、そのような人を見て、なにかをして上げたい、という自然に動かれたのが、その偉大な足跡であったと思います。光田先生に関しては皆様もご存知の多くの素晴らしいエピソードがあります。その一つをご紹介いたしましょう。「憩いの園」で奉仕されていたある日、ある婦人が寂しそうに「光田先生、久しくお経を聞いていないのです」と言われました。次ぎの訪問までに早速、八千代姉妹は「般若心経」を空で覚え、その婦人の部屋で線香を立て、「般若心経」を唱えられたら、その婦人は涙を流して喜ばれたそうです。

アメリカのあるイエズス会の会士が「一人一人の人生は、今、神が筆をとって書いておられる第五福音書である。その中のページを開いて祈ることは、福音書を開いて観想するのと同じ価値のあるものだ」と言いました。八千代姉妹の人生はまさしく、私達一人一人に残された「第五福音書」であると確信いたします。

フランスにメンタル・ハンディキャップを持ったために、排除されたり、受け入れられずに苦しむ人達と、共に歩む努力を重ねてこられれ、ラルシュ・コムニティの創始者として、世界的に有名なジャン・バニエさんと言う方がおられます。この方が言われた言葉ですが、光田先生の私達の遺言として残された言葉として、その言葉を持って本日の話を終わり終わりたいと思います。

「神様はこの世において、愚かな人、弱い人、貧しい人を選びました。神様のことを聞きたければ、神様が選択されたそういう人のところに行って聞きなさい。そういう人達が神様について教えてくれます。そういう人と話することが神様と話することです。現実的な援助はもちろん必要ですが、「痛み」の中にいる人と「友達」になって下さい」

「全能の神様、あなたはみかたちに似せて人を造り、み子イエス・キリストを人としてこの世に生まれさせ、その救いと模範により、皆ともに神の子として、まことの愛の交わりに生きる道を与えてくださいました。ことに光田八千代姉妹を通してその交わりが豊かにされたことを感謝いたします。どうか、わたしたちの信仰と希望をますます強くし、終わりの日に光田八千代姉妹とともに、み国の永遠の喜びにあずからしめて下さい。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

(追悼 礼拝 99・8・22 伊東)



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信仰の序列?質と量の序列の排除 
(マタイ16::13-20)

本日の福音書の個所は、マタイがイエス様について見聞きした事を、イエス伝として描く中、イエス様の活動と教えを記した事の締めくくりとして極めて大切な個所であります。すなわち、マタイは4章からイエス様の公生涯について触れ、数多くの大切なイエス様の教え、パリサイ人等との論争、癒しと奇跡を描き、その結びにあたって、「それではわたしを何者だというのか」と言うイエス様の問いに対して、ペテロの言葉に託して「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白によって、明確に回答が与えられます。そして今日も、わたし達一人一人は「あなたにとって私はなにを意味するか」というイエス様の問いに出会っているのです。

舞台ではどのような小道具も、ただ漠然とそれが置かれる事はなく、舞台の脚本家がある何気ない小道具に、彼にとっての大切なメッセージをその託すように、聖書においてもただ単なる地名にみえるものも、福音記者の大切なメッセージを含んでいます。今日の話の舞台となったフィリッポ・カイザリアは、ローマの属州シリアに近いパレスチナの北端に位置する町で、イエス様がお生まれになる20年ほど前にローマの皇帝アウグストはこの地をヘロデ大王に与えました。彼はこの温情に感謝し、ここに皇帝の為の神殿を建てています。その後、ヘロデ大王の子、ヘロデ・フィリッポは町を拡張し、ローマ皇帝(カエサル)に敬意を表する為、この町をカイザリアと名付けました。もう一つの同名の町と区別するため、自らの名であるフィリッポを付け加えました。この町には皇帝を神格化して礼拝する神殿の他、ギリシャの神々(特にパン神)の神殿があり、さらに古くはバール神信仰の拠点でもありました。イエス様はこのような政治的神々や自然信仰の神々が存在する土地において、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになっているのです。この場面設定では、マタイは今後ずっと教会が対決していかなけねばならない真の神の子イエスと他の神々の対峙が想定されているのです。

現代において、真の神と偽りの神々とはなにを意味するのでしょうか。最近新聞で読んだ記事ですが、カリフォルニア州では州の医療厚生の費用を削減する為、「出生前診断」を奨励しているそうです。そして「出生前診断」で「ダウン症児」と診断された妊婦の半数は堕胎を希望するそうです。ここに私は現代人の「偽りの神」への信仰を見ます。障害を持って産まれる子は不憫だ、そして迷惑だ、という現代人の傲慢さです。そしてその背後にある「こういう存在は価値がある」「こういう存在は価値がない」という人間の質・量に対する序列化の信仰です。知的に、精神的に、肉体的に障害があるから、そのものを低い価値なるものとし、場合によっては抹殺することも辞さないと言う、人間の傲慢さです。これは「人間の価値」を質・量にのみ置く「偽りの神」信仰です。キリスト教の、真の神の信仰からは全く別の価値観が示されます。すなわち、質・量に一切左右されない価値観、存在すること自体が大切である、という信仰です。

創世記第一章三節に「神は{光あれ}と言われた。すると光があった」、また、その光や地や海や木などを見て神は「良しとされた」と記載されています。そして、光や地や海や木の状態やその内容に関しては一切触れられておられません。すなわち「あれ」が神の望みたもう事なのです。ある、存在する事自体が重要であり、価値のある事なのです。従って、神の目線の前には人間の質・量による序列化は否定されるのです。どのような障害を持って生まれ出てくる子も輝く価値を持った存在なのです。その存在を抹殺する人間は真の神を知らない方々です。今日、喜多ご夫妻は銀婚式を記念されています。25年の歳月にはそれはいろいろな事があった事でしょう。バラ色の生活だけではなかった事だけは確かです。ひょっとして、通常の夫婦のように、何回か別れることを考えられたかも知れません。しかし、二人は今日、神と会衆の前で結婚式に立てられた誓いを新たにされ、この日までの神の御守りと御導きを感謝されたのです。25年もの長い年月の間、二人が夫婦として、親として共に手を携え、歩んでこられ、今、再び25年の後、揺るぎ無い夫婦として神の前にお立ちになるその事が神の祝福なのです。「夫婦であれ」「それを見て良し」とされた、その事自体が神の側の祝福であり、その祝福に答えるべく二人して努力し歩んでこられた歩みこそが、二人の信仰の結実なのです。

聖書のみ言葉にに戻り、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエス様の問いかけに対し、ペテロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と「メシア」と「神の子」という二つの表現で自らの信仰を言い表します。「メシア」と訳されている言葉はギリシャ語原文ではクリストス、クリストスは後に固有名詞として用いられるようになりましたが、本来は「油注がれた者」を意味するヘブライ語のマーシュイーアッハのギリシャ語訳で称号であります。油注ぎは神への奉仕のための聖別を意味します。油注がれた者とは神から特別の課題のために選ばれ、それを果たすための力を与えられた者であります。イエス様の特別な課題とはなんだったのでしょうか。もちろん、十字架による贖罪がその中心ではありますが、それと同時に私達人間に新しい価値観を植え付ける事もイエス様の特別な課題であったように思います。イエス様によって与えられた新しい価値観とは質と量に支配されない価値観です。一人一人の人生にしても、辿りついたところが問題ではなく、運があって人が羨む地位や立場にいようと、人から見向きもされない地位や立場にいようと、著名であろうと、無名であろうと、富んでいようと傲慢になることなく、貧していようと卑屈になることなく、その人の質の内容や量の大小は神の前には意味のなさない一切の序列がない価値観、肉体的、精神的、いかなる障害を持っていようが、あらゆる健康に恵まれていようが、神様の目線の前には、一切の序列や優劣がなく、全てが神様の前に等しく尊い、という価値観を私達はイエス様の十字架と生き様を通して示されたのです。多くの教会がなしている信仰に序列(深い浅いの序列)を持ちこみ、健康を祝福、病気を呪いとする誤りは正されなければならないと信じます。この意味で「真の自由」をイエス信仰によって得ることが出来るのです。この信仰の集約が「あなたはメシア、生ける神の子です」なのです。もっと具体的に申し上げれば、人生のあらゆる場面でイエス様の目線を回復し、このような時、「イエス様ならどうなさるか」という自問が日々の生活の中で生ずる事です。自分の見識や知識・経験のみを「神」に祭り上げて事を判断し、人を裁くことやめ、イエス様の目線でものを見る事が出来るよう祈り求める事であると思います。「イエス様なら今、どうなさるだろうか」という問いを、どのような時にも出来るキリスト者でありたいと切に願うものです。

(1999・8・22 伊東)

 

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からし種とパン種  
(マタイ 13:31−33,44−49)

イエス様は自然界のありふれた奇跡に注意したことがあるか、とお尋ねになります。このような奇跡が霊的な世界でも繰り返されようとしているのです。世間ではキリストがこの世にお生まれになって以来、世界は良くなったかと人は問い掛けます。

教会がある事がこの世を良くする事になっているか、という厳しい質問です。幾多の宗教、教会があるにもかかわらず、「天の国」、すなわち「神の国」、「神の支配」はほとんど取るに足らない現実に見えるかもしれません。しかし、一見なにも起こっていないように見えるこの世界にも「神の国」は着々と広がりを見せているのです。イエス様はこの奥義をからし種とパン種の喩えでお話になりました。

最も小さな「からし種」が大きな木ほどになる自然の奇跡、世
界の中で酵素のように働く「神の支配」をパン種で「愛の奇跡」を説かれたのです。福音書を注意して深く読むと、イエス様がおられる所に、神の国があるという結論に達します。

イエス様のおられる所には、全ての者をそのままの状態で受
け入れるという真の愛があります。上澄みの人間だけではな
く、どん底の人間をもそのままの状態で受け入れると言う愛
です。イエス様の居られる所には全ての者を許し、決して裁
くことのない愛があります。

考えても見てください。あなたはイエス様を思いながら、同時に人を裁き、非難し、謗る事が出来ますか。イエス様が臨在されるところに、絶えず真の愛があり、平安が支配する場所となるのです。フランスのエキュメニカルな集団「テゼー」の歌、[UBI CARITAS]は実にこの真理を歌っています。
UBI CARITAS  ET AMOR UBI CARITAS, DEUS IBI EST 慈しみと愛のあるところ 神います。

あるキリスト者は「私達は愛の伝染者にならなければならな
い」と言いました。そうです、私達に接する人に「イエス様の愛」の少しでも伝染する使命を帯びているのです。

イエス様は「天の国=神の国」すなわち「神の支配」を具現
しているのです。使徒教父であるオリゲネスはそれをアウト
・バシレイアという一言葉で表現しました。すなわちイエス
様自身が「神の国」なのです。

したがって、私達がイエス様の弟子として、彼に属するものとなる為には「神の国の人」、すなわち、神の支配を全存在を持って受け入れる存在でなければなりません。神の支配とは、私達が自分の考え、見識、思想、経験を絶対とし、決して相手の立場に立とうとしない傲慢さにきずき、私達の目線をイエス様の目線に合わせる事です。私達キリスト者にとって、全ての事を考え、行動する時、イエス様ならどうされるか、と自らに問い掛ける事なのです。私が私を支配するのではなく、自らをむなしいものとし、イエス様の支配を受け入れる事です。

神の支配とは私達が「真の愛」にきずくことです。相手から
価値を奪う事のみのエゴの愛ではなく、相手に一方的に与え
る「真の愛」を仰ぎ見て歩む事です。

真の愛は愛する時に必ず「痛み」を伴います。自らをへりく
だる「痛み」です。自らを「空しくする」痛みです。相手を
相手の場で理解しようと屈み込む「痛み」です。自分の中に
自分の都合の良い部分だけではなく、その人の全て、美しさ
も醜さも合わせて受け入れようとする「痛み」です。

ですから、人を本当に愛しているかどうかは、愛する時「痛み」を感じているかどうかで判断できるのです。私達は今、本当に
社会の為、家族のため、隣人の為、「痛み」を感じている
か、とイエス様は今日もお尋ねになっていると思います。

「神の国」の宣教とは実に「愛の宣教」なのです。からし種
のように、パン種のよに私達の愛を育て、膨らませようでは
ありませんか。この為、今日私達はこの教会に集められ、魂
の糧を聖餐によって頂こうとしているのです。また、既に神
の国に召された聖徒達との交わりを保つため、ここに集めら
れたのです。

本日は逝去一周年を迎えられた故板垣ツネ姉妹を追悼いたし
ております。おだやかで、謙遜でまさしくキリスト者の模範
であられました。大げさではなく、私は姉妹に接する度に自
分の性急さと傲慢さを強く感じました。一人のかけがいのな
い人生。今、彼女が私達に残された大きな遺産を心から感謝
いたしたいと思います。

(99・07・25 伊東)

 

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目線を変えてみようーイエスとニコデモ
( ヨハネ 3:1―17)

Nicodemosは彼の見たイエスの奇跡から深い印象を受け、キリストの中に自分の理解することの出来ないなにものかがあるに違いない、と考えたのです。

イエス様はこれに答えて答えたもう「あなたは誤れる見方をしている。私が行なった奇跡に驚いているが、それは単に{しるし}に過ぎない。あなたは見方を変えて、異なった観点から見なければならない。もしあなたが神よりの光を受けるならば、あなたの内に起る真の奇跡を見る事が出来るであろう。あなたは{新たに生まれなければ}ならない」。

ここで「新たに」「もう一度」と訳されている言葉は、「上から」とも訳せます。「上から生まれる」とは「神から生まれる」と同意義です。「神から生まれる」とは、ニコデモがそして私たちが真に悔
い改める事です。

ニコデモはイエス様に出会いながら本当の意味でイエス様を
理解していませんでした。私たちもイエス様を本当に正しく理解しているでしょうか。ニコデモが必要とし、今、私たちが必要とするのは「真の悔い改め」です。聖書で説教で、聖餐でイエス様に出会い、私たちの生き方が、見方が、価値観がもし変わらなければ、私たちは本当に正しくイエス様を理解していない事になります。

この個所でヨハネはイエス様の口を通して「人々が持っているものを捨てて、神についての、イエス様についての新たなる価値の認識に達しない内は、キリストの人格の事実を中心とする交わりには入る事が出来ない事が告げられているのです。

旧約聖書においては「悔改め」は二つの基本的な意味を持っ
ています。すなわち神に帰る事(shuv)と誤った行為を悔いる事(nacham)です。悔改めはアブラハム、イサク、ヤコブの神である真の神に帰る事です。そして神と交わした契約―互いに憐れみあり、無情と暴虐に背を向けることであり、困っている人々、貧しい人々、外国人、寡婦である人に対して愛を持って相応の世話をする事―を履行する事です。

また、私たちが「居なければいけない場所におらない」事を認識し、その事実を悲しみ、後悔するという事です。
イエス様は本質的に罪を神からの離反、神への信頼の欠如と
ご覧になりました。それゆえ、「悔改め」とは神への疑いと、それから由来する不安と不確実さの状態を取り除く事であります。

従って、新約聖書の(メタノオー)とは「罪ある人間が神に帰る事」であり、私たち一人一人が自らの心と意志でもってなす行為でもあります。
それゆえ、パウロは悔改めを全体的変化、つまり、死ぬ事で
あり、復活する事であり、新たになる事であり、新しい創造であると解釈したのは全く正しい事でした(ロマ 6:5―12、2コリント 5:16―19)。

多くの人は世の悲惨な現実を見て、「神は居ましたもうのか」と問い掛けます。しかし、ロンドンの警官が黒人の青年が殺されるのを阻止しなかったばかりか、逮捕もしない事も、リオのカンポス市で金持ちの血統付きの犬か貧しい子供を襲って傷つける事も、全ては人間が神を第一とせず、又、神に立ち返らないからです。

イエス様の宣教の第一声は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。
この世にのみ向かっている私たちの視線(目線)を変えて私たちの生活を今一度、考え直せ、とイエス様はおっしゃっているのです。とどのつまりは「金だ」「物だ」、「地位だ」「名誉だ」という私たちの本音をそのままとせず、それに疑問を持ち、真の価値観を持たなければ、決して幸せにも平安を得る事もない、とイエス様はおっしゃるのです。私たちは神のみ言葉にもっと信頼する必要があるのです。その事が「悔改め」であるのです。

この意味で「新たに生まれる」「上から生まれる」とは神の視線(目線)に戻る事であり、真の自分に戻り、真の隣人との関係に戻る事でもあります。私たちは一人一人が兄弟として作られ、一人のみでは決して幸せになれない事を実感する事でもあります。

また、「悔改め」は明らかに私たち一人一人の決断を伴う行為でもあります。しかし、その行為は神がまず「一人子を死に渡す為にこの世に遣わされた」という愛をまず最初に示された、その愛を私たちが身にしみて感ずることから出発する意味で、また、神の賜物であることを忘れてはならないと思います。

(99・2・28 伊東)


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私が来たのは羊が命を受ける為
ヨハネ 10:1―10



イスラエルにおいて、全ての職業の内、最も古いのは牧畜業
者であったと言われます。つまり、羊飼いあるいは牛飼いで
あったわけです。選ばれた民族が農耕者として定着する、は
るか昔、イスラエルの民は天幕に住み、家畜を牧草のある所
から他の牧草のあるところへと家畜を追いながら、あちこち
放浪したのでした。

これはイエス様の時代においてもなお非常に重要な職業であったと言われています。聖書の多くの記述から明らかになる事ですが、羊の群れは一千頭、一万頭もいたため、このような羊の大群はただ熟練した男にのみ委ねる事が出来ました。羊飼いは容易な職業ではなかったのです。家畜群は一年の大部分を戸外で過ごさねばならなかったのです。彼らは過越節の前の週に連れ出され、11月の中頃までは戻らなかったのです。羊はしばしば一本の脚に尾を結わえ迷い出ないようにしたいたが、時たま、犬が連れ戻す事が出来ないほど遠くに行ってしまうものもいました。

このような時は羊飼いは自らその迷った羊を連れ戻す為に出かけなければならなかったのです。ハイエナ、きつね、その他の野獣がおり、羊飼いは野獣と戦う事は珍しくなかった。この
為、羊飼いは丈夫な鉄を巻いた棍棒と大きなナイフを持って
いました。「羊の為に命を与える良き羊飼い」(10:11)は現実の話であったのです。羊達は今日の福音書が語るように、決して羊飼いの声を間違えなかったのです。羊と羊飼いはつねに起居を共にしたため、真の愛情を生じせしめました。

したがって、今日のイエス様の喩え話はイエス様時代のパレスチナ人の心におおいにうったえたものと思われます。彼らはその生活を親しくしっていたからです。馴らされた羊はその名を呼ぶと近づいてきた。羊飼いは羊を愛していたのです。羊も羊飼いを慕った。羊飼いは失われた羊に対して、イエス様が滅亡の危機にある魂に対すると同じ憂慮を示したのです。かれらは羊の為に絶えず心配し、その失われた羊を探す為に急行し、羊を見つけるとそれを肩にして喜んで帰ってくるのでした。

今日の福音書にある「羊の囲い」とあるのは羊飼いは夕方に
なると、羊を一個所にに集め、羊飼いは交代で番に立ち、羊
の群れの番を容易にする為、ふつう羊が飛び越えられない高
さに石を積み、大きな羊の囲いを作ったのでした。そのよう
な羊を襲う野獣や泥棒が絶えずいたわけです。このような背景をもとに、イエス様は自らを羊飼いに喩えられるのです。

今日の福音書で大切な所は「羊はその声を聞き分ける」とい
う表現です。バルトは「信仰は聞く事である」と定義しています。人間の基本的な精神的活動に二つの代表的な動作があります。一つは「考える事」であります。科学はそれが人文科学であろうと、又自然科学であろうと「考える」行為の産物であります。すなわち、過去のデータを研究する事によって、未来を予測する事です。早く言えば天気予報のようなものです。データが増えればその確率は増えます。しかし、絶対的予測は出来ません。あくまで、「だろう」の領域です。

それが証拠に科学は進歩すると言われるのです。もし、科学が絶対であれば「進歩」はありえず、10年前の科学書は立派に今も通用しなければなりません。しかし、先端科学の世界では1年前の論文は現在、通用しない事もまれではありません。もし、「科学」がこれが真実だ」と言った途端に科学は進歩を止めます。

もう一つの代表的な動作は「聞く事」であります。考えても、考えても、またどんなに過去のデータを調べて考えても、わからない事があります。例えば、人の心です。その人との長い付き合いや表情から、おおよその想像は出来ます。しかし、その想像が本当かどうかは、その人が自分の心を語り、それを「聞いて」初めて、「ああそうか、この人はこう思っていたのか」と分かるわけです。

真理に関しても、神に関しても、絶対者に関しても、人間がいくら、真理は、神は、絶対者は、と考えてもなんの役にもたちません。そうかも知れないし、また、そうでないかも知れないからです。ただ、もし、神がいたもうなら、その神が「自分はこういう者
で、あなたがたをこの目的で創った、と言われたらそれを聞
いて信ずるか、それとも「それは嘘だ」と言って退けるしか、二つの選択しかないのです。

聖書はその「神の私達への語り掛け」がイエス様、そのものの存在であると、私達に語ります。今日の福音書を通して、イエス様は「私は羊の門である」あるいは11節に「私は良い羊飼いである」14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃる時、実にこの事を私達にお示しになっておられるのです。

バルトはここで「イエス様が真理であるとわたしがわたしに納得させるの」でなく、イエス様が「わたしは羊の門である」「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われるのを「聞く」、すなわちその言葉に撃たれて、その言葉が自分の内で真実となる事、を信仰と定義しています。「羊はその声を知っているので、ついて行く」「あなたは私の声を知っているか」とイエス様は今日、今、私達一人一人にお聞きになっているのではないでしょうか。

(99・5・25 伊東)



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最も重要なおきて
(マタイ 22:34−40)

「おきて」という言葉に抵抗を感じられる方は多いのではないでしょうか。現代人にとって人は完全に自由でなければならず、いかなる束縛・制約も快い響きを持って受け入れられないのではないでしょうか。しかし、その表現を人間間の「約束事」、あるいは「人の道」「道徳」「規律」と表現すれば、それなりに現代人にも受け入れられるかも知れません。その意味では教会が使う多くの言語にも表現を再考をするものも有るかもしれません。もちろん、神なる絶対者を信ずるものであれば、神の「命令」「言いつけ」「戒め」に従うという必然性が生じるわけですが、そこで、一体、神の「命令」、「言いつけ」「戒め」とはなにか、と言う問題が生じます。ユダヤ教の律法では248(人体の骨の数)の「せねばならない」掟と365(一年の日数)の「してはならない」掟があると考えられました。やはり、ここで注目したいのはユダヤの思想に「してはならない」という掟と同時に「せねばならない」掟があった事であると思います。「してはならない」という掟は割合理解されやすいですが、いつの時代にも己中心の人間には「せねばならない」という掟は理解しにくいのではないか、と思います。また、現代人に一番軽視されているものかも知れません。したがって、キリスト教の罪の概念にも当然「誤ったことをなした罪」と「なさなければならない事をなさなかった罪」もあるのです。

ユダヤ教徒にとって、この多くの掟の中でどれが最も重要かがしばしば議論されたそうです。もちろん、「律法は神の意志の表現であるから、そこに人間が優劣をつけることは出来ない」とするラビも居たそうです。しかし、ユダヤ教徒が子供に会堂で「律法」を教える際にも、またユダヤ教徒としてどうしても守らなければならない最小限度の掟はなにか、という議論がされた事は想像出来ます。ここでユダヤ教指導者は再度、イエスを陥れる為、「先生、どのおきてが律法のうちで、一番重要ですか」と問い掛けたわけです。この問いかけは一見、なんでもない質問のように見うけますが、その実、「律法の集約はなにか」という大変な質問であったわけです。「お前は新しい教えを広めているそうだが、本当に律法を理解したり、教えたりする能力があるのか」という「回答次第ではただでは置かない」という陰険な問いかけであったように思われます。

イエス様のエルサレル入場以来、ユダヤ教の指導者たちはイエス様の言動にただならぬもの、いままでとは違う教えを説く者という事を直感的に感じていたのでしょう。同時に体制派として、イエス様に自分達の立場を、生活を脅かす者としての脅威を感じていたのでしょう。

これに対して、イエス様はユダヤ教徒が現代にいたるまで日に2回は唱える「信仰宣言(シェマー)である申命記6:5からの引用である「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、と同時にレビ記19の18に記載される「隣人を自分のように愛しなさい」の二つの戒めを並べて最重要度の掟、すなわち律法全体の集約として打ち出されました。ユダヤの指導者は「最も重要な掟(単数)は」と尋ねたのに対して、二つの答えを出されています。しかし、イエス様はもちろん二つの掟を持って答えとされたのではなく、イエス様の考えでは「神を愛すること」と「隣人を愛する」ことは分けることが出来ないものと言う理解が前提となっていたのです。つまり、「神を愛する」ということは、取りも直さず「隣人を愛する」ことに他ならない、とイエス様は言われるのです。どんなに「神を愛している」と言っても、もし、「隣人を愛していない」なら、それは「神を愛している」ことにはならない、という厳しい教えです。39節の「これと同じように」という言葉(ホモイア)の一言葉は「第一の戒めと同様に重要な」という事を意味し、「神を愛する」という信仰表現は「隣人を愛する」ことによって実行されるのだ、とイエス様は言われているのです。ここに先ほど申し上げた「なさなければならない事をなさなかった罪」があります。

他の言葉で言えば、神信仰は隣人愛によって結実すると言われるのです。もちろん、隣人愛は神信仰を前提としていることは疑いありません。隣人を自分のように愛することは、隣人も私達の父なる神にとっての「大切な大切な子である」ことが認識されて初めて可能になるのです。隣人が私と同じ天の父の愛しい子供でもある、と認識する時、隣人の持つ誰も犯すことの出来ない尊厳が私の目に見えてくるのです。従って教会で良く使われる「兄弟姉妹」なる言葉は、教会の中の仲間意識としてのみ使われるのではなく、教会の内にも外に対しても、意識の上では使われる時、初めて「隣人を愛せよ」というイエス様のご命令が実る時なのです。

そしてイエス様は旧約の律法を「神への愛」と「隣人への愛」という二つの愛で集約するだけではなく、この目線から自らの生き様と死に様を規定されるのです。イエス様が使われた「神を愛せよ」「隣人を愛せよ」の「愛せよ」は当時一般には使われることがまずなかったアガパオーというアガペーの動詞を用いておられます。そしてこの動詞の本質は「行為によって愛を示す・愛を立証する」という事を意味します。そしてまさしく、神様は独り子イエス様を世に遣わし、十字架につける大きな痛みを通して、「何が真の愛であるか」を示し、立証されたのです。アガパオー(愛する)とはキリストがわれらの為に死ぬという仕方で、自らを与えることによって、私達に証された愛です。パウロはロマ書5の8で「まだ罪人であった時、わたしたちの為に、キリストが死んで下さったことによって、神は私達に対する愛を示されたのである」と書き、ヨハネは第一の手紙の3の16に「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」と書きました。キリストのアガペーは神様が最も低い深みの中まで、私達のために下ったことを意味します。そして私達のあるがままの存在を、なにかの条件をつけたり、資格を問うことなく、そのまま受け入れて下さるという神の愛が示されています。自己の義のみを主張し、神の前から離れ、失われている私達を神が捜し求めて下さる、ということを意味するのです。アガペーとは十字架のアガペーなのです。人々がこのアガペーを求め、理解しようとする時、人々の中に一致を作り出します。種々な形に分かれた私達をキリストの体に結び付けます。私達はこのようにして不完全なままで、キリストの体に結ぶつくことによって、癒され、償われ、より完全なものに新生されるのです。繰り返し繰り返しなされる日曜日ごとの聖餐によって、自らの口にキリストの肉と血を頂く同じ確かさを持って、イエス様は今もその新生の確証を私達に証されるのです。そしてその時、初めて各人に与えられた賜物に従って、各々の愛において互いに仕えるという結果を私達の間に作り出して下さるのです。パウロは「愛はすべてを完成させるきずなです」と書きました。まさにアガペーの愛こそ私達を神のもとに一致させる結合体なのです。

この愛を仰ぎ、請い求めて参りたいと思います。

(1999.10.24 伊東)

 

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