心のメッセージ

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私と復活のイエス(ルカ 24:36−48)

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い
   出し、両替人の金をまきちらし、。。。」
大斎第三主日説教
     (ヨハネ2の13−22)

神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい
      (マルコ 1:15)

なぜあなたの弟子達は断食をしないのですか」 
     (マルコ 2:18)

 

昨年の心のメッセージはこちらをクリック下さい。

「主よ、来りませ!」  (ヨハネ黙示録 22:20)
私の兄弟であるこの最も小さい者 (マタイ 25:31-40)
信仰の序列?質と量の序列の排除  (マタイ 16:13-20)
からし種とパン種 (マタイ 13:31-33; 44-49)
目線を変えてみよう - イエスとニコデモ ( ヨハネ  3:1-17)
私が来たのは羊が命を受ける為 (ヨハネ 10:1 - 10)
最も重要なおきて (マタイ 22:34 - 40)

kuma no oyako


私と復活のイエス
  (ルカ 24: 36−48)


復活の教義はキリスト者にとって歴史的な出来事に関連している事は確かであるが、また同時にその歴史を超えた現実として、今日の私の、そして皆様の生と死に深く関わる事であります。そうでなければ一年に一回復活節として大切に守り、歴史上の単なる出来事として眺めるに留まり、私たちの霊的な生活を真に新たにする力とはなりえないのではないでしょうか。私の個人的に尊敬する神学者の八木誠一氏は「イエスは私たちを目覚めさせる方」と定義しました。

聖書を通してイエス様のみ言葉と生き様に接した人は決して以前のままではいられないと同様に、復活のイエスを記念する毎日曜日の礼拝に出席する者は生と死に関する「不確かさ」あるいは「疑い」が「確かなもの」に変化することを経験しなければならないのではないでしょうか。

「復活祭前夜に届く訃報かな」。まずい俳句ではありますが復活前夜Eメールで癌を患っていた義弟の死に接して詠んだ句です。義母も腎臓癌で余命幾ばくもないと言われ、今回の訪日の目的の一つは義母に「最後の挨拶」を告げることでもありました。私の母も89歳で毎年これが最後と思い親孝行の真似事をする為訪日しています。今回は「これが最後になるかもしれない」といいつついつもより多い小遣いをくれました。私にとって「復活のメッセージ」は単なる尊い教理だけではなく、今の私の究極的な関心事でもあるのです。

本日の福音書によると復活したイエス様は「あなたがたに平和があるように。。。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってみなさい。」と言われました。この言葉は今、なにを私たちに告げようとしているのでしょうか。それは復活したイエス様を単に神秘的な人物のように眺めるのではなく、あの十字架から蘇られた主、そして今もこの聖餐式の真の司式者として現臨し、聖餐を通して復活の命を与え続けられる主、又、私たちの日々の生活の中で私たちが知覚しようが、しまいが、決して私たちを忘れたり、見捨てたりすることなく、絶えず、どのよう時にも共に歩んでくださる「同行者イエス」を、目を覚まし、凝視する事をイエス様は求めておいでになるのではないでしょうか。お遍路さんの編み笠に書かれた「同行二人」なる言葉に示される信仰と同様、どんな時にも私たちは一人ではなく、イエス様と一緒であることが示されているともいえるのではないでしょうか。

イエス様がお見せになった手と足は、復活を今の私たちの現実から離れ、なにか精神的な世界に移行してしまうように、私たちのこの現実を離脱して見て欲しくはない。また手と足は「十字架の死」を単なる過去の出来事として弟子たちに思い起こせさす「印」でも「表徴」でもない。それは復活し今もここにいましたもう、そして私たちの日々の現実と関わりたもう主イエス様ご自身の現実を指し示しているように思います。又、イエス様がお見せになった手と足はイエス様が弟子たちと分かち合った生の現実を彼らに思い起こさせようとしておられるのではないでしょうか。したがって私たちもイエス様の復活をイエス様の十字架の死に続いて起こった歴史的な神秘としてではなく、歴史を超えて今の死すべき私たち一人一人と深く関わりたもう現実としてこの聖餐にて復活の主と出会わなければならないと思います。

復活というと、私たちは肉体の蘇りの信仰を思い起こしやすく、死後の神秘的な現象と思い込んでいることが多いようです。しかし、福音書における復活は決して世の終わりに際しての、私たちの蘇りに対する信仰を直接示しているのではないと思います。むしろ弟子たちを喜ばせたのはイエス様との出会いそのものです。弟子たちは復活のイエスとの出会いによって全く新しい生の次元に導かれたのです。そしてその次元を体験させられたのです。そして今、復活の使信を聞く私たちの生にも新しい次元が開かれなければならないのです。復活のイエス様に聖餐を通して出会った私たちの生の、全ての現実に括弧が掛けられるのです。アメリカ聖公会の祈祷書では聖別祷のなかでイエスにあって「私たちは誤りから真理へ、罪より正義に、死から命に移った」と告白します。このことはイエス様が復活しても弟子たちと食事を共にすることをお求めになっていることがそれを示しています。
“「ここになにか食べ物があるか」と言われた。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた”(ルカ24:41−42)

弟子たちが復活したイエス様に出会ったのは、一時的にせよ決して死後の世界への超越によってではなかったのです。むしろ食べたり飲んだりする彼らの死すべき現実の中でした。現在の私たち一人一人にとっても同じ事が言えるのではないでしょうか。

お墓が存在し私たち一人一人は例外なくその墓に入るという現実の中で復活されたイエス様は私たちと関わりを持ちたもうというのが復活の使信であると信じます。教会で繰り返し繰り返しなされる聖餐こそその保証であり、現実でありそして先取りであるのです。もし、私たちが復活を死後という神秘的な次元に想定しているなら、私たちは決して今も現臨したもう復活の主に出会うことはないでしょう。今のこの死によって脅かされている生の現実こそ主イエスと出会い、私たちが新しい存在に作り変えられる恵みの現実なのです。

イエス様の蘇りによって私たちに明かになった事は私達は死んでも神は死の中から私たちを新しい存在に作り直す事の出来る力だ、ということです。

イエスは神の子として「私は蘇りであり命である。私を信ずるものはたとえ死んでも生きる」と私たち一人一人に呼びかけられました。つまり私達はたとえ死んでもイエス様の上において示されたように神の力によって新しい存在に作り直されるが、その為には神が私たちの為に送って下さったイエス様を信じなければならないのです。「私を信ずるものはたとえ死んでも生きる」、すなわち創造し直される、とイエス様は言われるのです。
イエス様を信ずるとは具体的になにを意味するのでしょうか?

それはイエス様が私たちに語りかけられるその言葉を聞いてそれに従うことです。
他の言葉で言えば「イエス様とイエス様の言葉を信じ、神の力、神の命、永遠の命、を私たちに持ってきてくださる方としてイエス様を受け入れ、私たちがイエス様の後についていくならば、「蘇りの命」が、言い換えれば自己中心に凝り固まっている私たち人間を根本的に創造しなおす神の力が、今から私たちの上に働き始めるのです。

聖パウロは復活した主との出会いを次のように述べています:「闇の中から光りが輝き出るように」と命じた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光を悟らせるように、光を与えてくださったのです」(2コリント4の6)。

闇と光、この概念こそ、聖書の大切な概念であると思います。私たちの存在の中に光と闇が共存している。他の言葉で言えば光としての真の自己(セルフ)と、闇としての自我(エゴ)が共存し、どんなことがあっても、私たちの存在にあって闇が光を覆い尽くすことを避けなければならないと思います。全ての宗教はこの自我をいかにコントロールするかを教えているように私は考えています。イスカリオテのユダは闇が光を覆ってしまった悲劇的な私たちの象徴であります。他の言葉で言えば、この闇とは私たちの不信、心の闇を意味しています。私たちがキリストと共に蘇るのは死後の肉体の蘇りにおいてだけではなく、今、主イエスに全てを委ねることによって「復活の命」を頂くことが復活信仰であると信じます。不確かさと、疑いと不信にゆれる私たちにの生の現実の真っ只中において復活の主は「安かれ」と語りかけられるのです。復活の主と共にあるときにのみ私達は真の平安を得ることが出来るのです。このゆえティリッヒは神を「存在の根拠」と説明しました。この私たち一人一人に備えられた恵みをただ感謝いたしましょう。合掌。

(5月7日 京都聖ステパノ教会にて。伊東)



     

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イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両 替人の金をまきちらし、。。。
(ヨハネ 2の13−22)


このラディカルなイエス様の行動は今の時代を生きる私達へのどのようなメッセージを伝えようとしているのでしょうか。
聖書学者は特にヨハネ福音書では、イエスが単にユダヤ教、特に神殿における神殿礼拝の浄化という意味で記録しているのではなく、神殿礼拝がイエスにおいて置き換えられるというラディカルな「奨め」としてこの事件が描かれている、と考えます。他の言葉で言えば、エルサレム神殿に象徴される人間が建てた神殿における礼拝を、イエスの体を媒介にしての神礼拝に置き換えるという明解な宣言として読まれるべきとしています。
ユダヤ教の「神殿」理解は「神が表象をもって時間的、空間的にいますと考えられ、祭儀がなされる建物」でした。

この神の臨在の場所としての「建物」としての「神殿礼拝」をイエス様は否定されたのでしょう。従ってキリスト教は「神殿信仰」に決別し、どのような場所にあっても、今も生きて臨在したもう復活のイエスの体を媒介とした「神礼拝」の新しいあり方を目指し、現実に聖書にあるような建物を否定した「家の教会」のように、新しい「集い」を形成していきました。にも拘わらず、キリスト教の体制化と共に、神礼拝の場所を固定し、新しい「神殿」建設にその精力を傾けるにいたったことは極めて残念なことであります。

現代においても、私達はイエス様と初代教会の生き生きとした、動的な「集い」の概念を忘れ、イエス様の愛の伝染者としての信仰のあり方を広める努力よりも、尖塔に十字架をつけた大聖堂や教会堂の建設に嬉々としている姿は問題であると思います。単に教会堂の建設のみならず人間の作った建物や牧師館やその組織の維持に固執し、多くの犠牲を払って維持せんとする姿は悲劇的ですらあるように思われます。教会堂に当たり前になった十字架ですら、教会に現れるのはほぼ5世紀カロリング朝あたりからとのことだそうで、それ以前のローマ時代は子羊・魚・葡萄の樹などの象徴的な表現があったのみであることを思えば、いかにキリスト教が「神殿礼拝」化していることは明らかではないでしょうか。

「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるのか」(2:18)とユダヤ人たちはイエスに問い掛けます。この「しるし」と訳されたσημειονは「目印・保証の為の印判・見えない真理や権威の外的表示」を意味します。イエス様は「しるしを見て信ずる信仰」を否定されたのです。何時の時代にも人々は宗教に、信仰に「しるし」を求め、宗教者も教団も素早くこの民衆の関心を見取ってその民衆の期待する「しるし」を大切にし、示そうとします。「しるし」は時には「癒し」「平安」「健康」「繁栄」「安全」等々を得る保証としてのご利益によって代表される危険が絶えずあります。一見、「しるし」はその信仰が正当な証拠のように取り扱われ、人々はその大きな危険に気が付こうとしません。もし私達が信仰に「しるし」を求めるなら、私たちと神との結びつきが「しるし」を動機として成り立つことになります。ところが人格と人格の結びつきがなんらかの「関心・しるし・保証・利益」によって成り立っているほど忌々しき問題点が他にあるでしょうか。

自己が相手と結びついている動機が、仮にそれが神との関係であっても、友人との、肉親とのそれであっても、相手になんらかの保証を要求し、相手からなんらかの利益を得ようとすることほど、醜悪なことがあるでしょうか。相手から得られる保証・利益をもとに相手と結びついているということは、決して相手を信じ愛しているのではないことを示しています。自分を愛する為に相手を利用しているに過ぎないのです。

実は自己そのものを愛しているだけのことです。これがエロースの本質です。エロースが糾弾されるのはエロースの持つその本質からではなく、その本質から「しるし・保証・利益」が相手から得られる事が無くなったときに、その結びつきがいとも簡単
に反故にされる時にであります。ここに人間の儚なさと脆さと醜悪さがあります。人間を襲う悲劇の多くはこのエロースの「儚さ」と「脆さ」に原因を持っています。そして「しるし」が、「保証」が、「利益」がえられないかぎり、人は神とも他の人とも結び付けない地獄相があります。そしてそれらのものがなくなるやいなや、その結びつきを捨て去るエゴがあります。私達の信仰が、人間の交わりや愛が「脆く壊れ易い」のはこのためではないでしょうか。

この地獄相から救われる為、聖書がわたしたち一人一人に示すものは、イエス・キリストによって現実になった「しるし」「保証」「利益」なしに、すなわち「無償で(値なしに)」(ローマ3:24)神と、人と結びつくと言う「純粋な愛―アガペー」であります。純粋な愛、純粋な結びつきとは、相手を相手そのものの為に愛し、結びつくことであります。相手に価値があろうがあるまいが、相手が存在する故に、相手の存在を認め、尊敬し、愛するということであります。このアガペーによってのみ私達は人間社会の持つ地獄相から自由になり得るのではないでしょうか。

今、私達の教会は同性愛者問題で分裂の危機に立っています。しかし、同性愛者の存在がが社会に、また教会に利益があろうが、なかろうが、私達がその方々を理解出来ようが出来まいが、まずその方々の存在を認め、尊敬し、あるがままの姿で受け入れることこそ、イエスの集いではないかと私は考えます。

私達はイエス様から私たちの生き様も少しでもこの純粋な愛に倣うべく命じられています。わたしたちは神を、人を「何も当てにしないで」愛することを、結びつくことを命じられているのです(ルカ6:35)。この愛を必死に祈り求めてまいろうではありませんか。少しでも私達が愛の不純を、結びつきの動機の不純を悔い改める祈りを、懺悔をなすとき、復活のイエス様を私たちの人生にお迎えする準備をする期間としての大斎節も生きたものとなるのではないでしょうか。

(2000年3月26日 伊東)


      
神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい

(マルコ 1:15)

早いもので阪神大震災より5年がたった。この5年の歳月は被災者にどれほどの長い長い苦しみの日々であったことであろう。この震災の時、高速道路の土台やマンションの土台の欠陥が被害を大きくした一つの原因であるとされた。

古今東西、建物にとってその土台がいかに大切であるかはいうまでもない。私は奈良古都に生まれたので、1300年ほど前の廃寺の敷石が、どれほどどっしりとした、揺るぎ無いもので出来ているかを、小さいときから見て育った。大地が揺れ動こうと
もびくともしないその土台に魅了されたものである。

振り返って人間はその生き様において人生において、揺るぎのない土台を持っているかが問われているように思う。人間にとって平静無事な折には、その土台の確かさが問題となることは少ない。しかし、一旦、事が起こると確かな土台にしっかりと繋
がっているかが大きな問題となる。

聖書のメッセージである「インマヌエルー神われらと共にいます」という原事実は、その人がどの宗教に属するか否を問わず、生きとし生ける全ての人間の根底の問題であり、自己成立の土台であることに人は気づいているであろうか。そして「罪」とはまさしくその「土台」から遊離することであり、すべての人間の疎外現象の主因である様に思う。それと同時に人間はこの根源的な「土台」の上に自らの人生を打ち建てるように作られており、本質的に「土台」から完全に離れ得ない存在でもあるように思う。

人は自分の現在の生き方が、人間本来のあり方から、どこかではずれている不満を常に持っている。それは、人の幸せ、成功を妬み、人の不幸に同情しながらも、内心快く感ずる人間一般の習性にも明らかである。そして、その様な自分が人間本来のあり方から、どこかではずれていることに思いが馳せる。他の言葉で言えば、人間一般の習性にも明らかな不満が、自分の有り様に不安を抱かせるゆえに、世にはこれほど多くの宗教が存在するのであろう。

しっかりとした「土台」にその人生の基盤を置くとは、具体的になにを意味するのであろうか。それは「私が土台に繋がっているかぎり、揺らぐことはあっても倒れることはない」という信仰である。建物の土台は人の目に触れることのない様に、私たち
も神が見えなくても、じっと自分を見つめて、「おまえはどうしているか。元気を出して、決して焦らず毎日出来るだけのことをしなさい。私が貴方を愛しているように、他の人の生き様を、世界を愛しなさい。そうすれば外から見て、どのような不幸な状況にいる時にも、奥深い芯のところで本当に明るい充実した生を楽しむことが出来る」と言われているのである。

この意味で「土台」にしっかりと繋がっているかぎり、私たちがこの人生で出会う全ての状況にあっても、その状況が「限界づけられる」ことが出来るのではないであろうか。仮にその状況がどんなに過酷であっても、悪くても、辛かろうが、その状況そのものが「限界づけられ」ことを経験するのではないだろうか。例えば病気は病気として信仰の有無に拘わらず存続し続けるかもしれない。しかし、病気自体は決して土台に繋がっている者を地面に打ち倒すことはない。土台に繋がっているかぎり、病気
に例え揺れても決して絶望的なものになり得ず、その状況にあっても「主」への信頼と未来への希望に生きることが出来るようされるのである。

聖書の語る人間の根源的な「罪」とはこの「主」への信頼を失う「虚無」への「誘い」であり、「神によって愛されている」という事実への「不信」がそれである。従って、「悔い改め」とはこの「虚無への誘い」と「神の愛への不信」から、人間本来の故郷、神の足台である「土台」に立ち帰ることである。

神様の意思を完全に代表され、神そのものであられたイエス様は「救い主」として、神の創造の意思を実現して、勝利を得ている事が新約聖書の中に福音として繰り返し、繰り返し語られている。私たちはこのイエス様の勝利によって明らかになった神
様の恩恵によって、この「土台」から遊離するという「罪」を克服するために戦うのである。この「土台」に繋がることのみが「勝利」を約束するものであるがゆえに、罪の侮りがたい力を忘れず、聖霊様のお助けを祈らなければならないと思う。

「悔い改め」のギリシャ語メタノイアは古典ギリシャ語では「心を変えること」「後悔」などを意味したが、新約では旧約のヘブライ語シューブと同様に全存在をもって神に帰り、神に服従することを意味する。この「悔い改め」がイエス様の宣教活動における第一声であったことは注目してもしすぎることはない。

今日、今わたしたちはこのイエスの「悔い改め」すなわち、真の「土台」へのしっかりとした「繋がり」の招きを受けている。
 
(2000年1・23 伊東)


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なぜあなたの弟子達は断食をしないのですか
 
(マルコ 2:18)


つい最近、日本人の宇宙飛行士を含む米国の人工衛星が打ち上げられたことは、皆さんの記憶に新しいことと思います。その科学的な意義はともかくとして、人間的には決して快適な宇宙旅行とはほど遠いものでしょう。特に食事などは栄養の面からは万点でしょうが、食事を心から楽しむというものに、程遠いのではないかと想像しています。

食べるということは人間に基本的な行為であり、生活の大きな比重を占めていることは世に星の数ほどのレストラントがあることでも覗えます。そして人類が極めて原始的な宗教活動を開始して以来、現在にいたるまで、あらゆる宗教でこの大切な人間の営みを、人為的に犠牲にし、神とのより深い交わりを深めるという意味での断食が宗教に持ちこまれた事は注目に値します。

仏教でも断食は修行・祈願のため。イスラム教では飢えを体験することによって、食物とそれを与えてくれた神への感謝をあらたにし、神を思うことであり、また食べることの出来ない者の苦しみを知るためでもあるとされています。イスラム教徒のほぼ凡ての人々は今でも年に一ヶ月、断食月(ラマダーン)には子供・,妊婦・病人・旅人を除く、凡ての信徒は日の出から日没まで、水を含めて一切の飲み物・食べ物をを口にしてはならないとされています。ユダヤ教ではある偉大な啓示を受ける準備として、また罪を悔やみ神の前にその意向を表明する手段として、ある時は特別に悩みのある時に神の援助を祈る準備、困難なる事業を遂行するにあたり、神の恩寵を得るための手段とし教えられました。

しかし、これはどの宗教を問わず、どのような宗教行事においても起き得る事ですが、正しい動機で始まった宗教行為・行事を「反復・集中」して行うことがいかに困難でらうかは私達自身の経験でも明らかです。例えば聖餐を私達は毎日曜日毎、かかさず反復して、しかも一回きりの事として、その事に全身全霊を傾けて主の「御からだ」と「御血」を頂くことがどれほど困難であるかをよく知っています。ユダヤ教徒においてもそうでした。断食は本来の意義が忘れ去られ、形式的な宗教行事・宗教的功績となり、それをしない者は非難されるようになりました。

今日の福音書の舞台はまさしくそのような背景で起こりました。週に二回(月・木曜日)断食をしていたファリサイ派の人々や、禁欲的な生活を送り、たびたび断食をしていたヨハネの弟子にはイエスとその弟子が理解できませんでした。全く断食をしな
いばかりか、「食べたり飲んだり食べたり」ばかりしているイエスの弟子達は、ファリサイ派の人々や洗礼者ヨハネの弟子達から、「大食漢で大酒飲みだ」と言われたイエス(マタイ11:19)の弟子だけの理由はあると思われた事でしょう。

イエス様自体、食事を「神の国」の宣教を特徴付ける「しるし」とされたのみならず、宴会はイエスによって神の決定的な終末完成の「見えるしるし」として表されるものとされました。もちろん、ファリサイ派にしろヨハネの弟子にしろ、まともにイエス様に質問したのではなく、イエスの教えとその隆盛を妬んでの詰問であったことが想像されます。

イエス様は決して断食そのものを否定されたのではなく、預言者と同じく、その内部的意義を高調し(マタイ 6:16)、心の悲しみの記号であると認められておられました。しかし、その宗教的功績を獲得する為の業になりさがった断食は、受け入れ
ようとはされませんでした。特に今の時は、神の啓示が残されることなく凡てイエス様を通して啓示され、イエス様を見ることは神を見ることが出来る喜びの時、救いの時であって、苦行によって罪を免除してもらうという宗教的功績を期待する時ではな
いとされました。

ここで語られる「織りたての布と古い服」、「新しいぶどう酒と古い皮袋」の喩えは、本来は断食問題と関係ない独立した伝承(「トマスによる福音書」47にも存在する)がここに挿入され、断食問題を通して、イエス様の新秩序とユダヤ教やヨハネの弟子集団との古い秩序は、合い入れぬものであることが宣言されているようにも思えます。したがって古い布・古い皮袋は、ファリサイ派及びヨハネの弟子を指しています。

イエス様とその弟子たちが形式的な断食もせず、心のへりくだる罪人と共に宴会を楽しむことを良しとする新しい秩序は、古い形式に拘る民族宗教と相容れませんでした。またイエス様自身の固有の存在自体が指し示す新しい価値観のゆえに、古い価値観とは相容れませんでした。またこの個所はイエスの弟子集団内の古い律法と形式主義を尊重し、ユダヤ教の一部に留まろうとするグループへのいましめと、理解することは出来ると思われます。

この危険性は現在においても、あのイエス様がお教えになった生き生きとしたダナミックな教えが、教会において形骸化し、形式化していることで明らかであります。

歴史の中では絶えずこのような「キリスト教」を、「イエスの教えそのもの」に戻そうとする運動がなされてきました。例えば、近代日本でも聖職の権威化を批判し、既成教会の改革を目指し「新しい教会」を建設すべく一応聖職の制度を破棄した無教会
運動においても、指導者の学問的精神的実力から、自ら実質的には同じような権威関係生んでしまったように、いつの時代にもこのような運動は困難なものでした。

しかし、2000年の間、教会がいかに生き生きとした信仰失い、イエス様時代のユダヤ教の断食問題と同様に形式化し、宗教的功績に拘泥し、形骸化して来ていることをこのままにしておくことはキリスト教の自殺を意味します。
パリサイ人たちは、イエス様によって新しい時が到来したことを、古い形式に拘るがゆえに見分けることが出来なかったのです。現代においても私達はファリサイ派の人々と同じように、キリスト教という古い形式と伝統のみに拘だわるがゆえに、イエ
ス様の教えそのものを、正しく見分けることが出来ないでいるのではないでしょか。今一度、私達の間にイエス様の教えそののを取り返せねばならないのではないでしょうか。

イエス様の教えは福音、「よきおとずれ」と言われます。日本語の「おとずれ」の語源は「音連れ」だそうです。日本の古代の人々は神がそのところに来たときに、なにか音をもたらした、人々はその音を聞いて神を感じたことから「おとずれ」なる日本語が出来たそうです。私達は今日も、今も聖書を通して、イエス様の「音連れ」を聞いているのです。この「音」は私の、貴方の価値観を覆し、全く新しいものを生み出す「おとずれ」です。うちしおれた魂と体を新たにしてくださる「おとずれ」です。

全てがいきづまって、もうだめだと思うような時にも、側にいてしっかりと支えてくださる方の臨在を伝える「おとずれ」です。喜び、楽しみにある時、一緒にいて共に祝ってくださる方の「おとずれ」です。にもかかわらず、イエス様のお体であり、世に仕えなければならない教会自体が、この「おとずれ」を正しく宣べ伝えず、自らのためにのみ存在することに、自己保全にあくせくしている現状はイエス様のお体の形骸化と世から非難されてもしかたがないのではないでしょうか。

今一度、イエス様のみ教えに戻ろうではありませんか。あの一切の既存の価値観を新しくし、唯、神のみに栄光を帰し、「小さき者」「弱き者」「虐げられた者」「罪人」と共にのみ歩まれようとされたイエス様の歩みに私達の、教会の歩みを合わせようではありませんか。だれかの行動を待つのでなく、私達一人一人がその歩みをイエス様の歩調に合わせることから、真のイエスさまの教会の建設は始まることを忘れないようにしたいものと思います。

(2000年2月27日 伊東)

   

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