「なぜあなたの弟子達は断食をしないのですか」
(マルコ 2:18)
つい最近、日本人の宇宙飛行士を含む米国の人工衛星が打ち上げられたことは、皆さんの記憶に新しいことと思います。その科学的な意義はともかくとして、人間的には決して快適な宇宙旅行とはほど遠いものでしょう。特に食事などは栄養の面からは万点でしょうが、食事を心から楽しむというものに、程遠いのではないかと想像しています。
食べるということは人間に基本的な行為であり、生活の大きな比重を占めていることは世に星の数ほどのレストラントがあることでも覗えます。そして人類が極めて原始的な宗教活動を開始して以来、現在にいたるまで、あらゆる宗教でこの大切な人間の営みを、人為的に犠牲にし、神とのより深い交わりを深めるという意味での断食が宗教に持ちこまれた事は注目に値します。
仏教でも断食は修行・祈願のため。イスラム教では飢えを体験することによって、食物とそれを与えてくれた神への感謝をあらたにし、神を思うことであり、また食べることの出来ない者の苦しみを知るためでもあるとされています。イスラム教徒のほぼ凡ての人々は今でも年に一ヶ月、断食月(ラマダーン)には子供・,妊婦・病人・旅人を除く、凡ての信徒は日の出から日没まで、水を含めて一切の飲み物・食べ物をを口にしてはならないとされています。ユダヤ教ではある偉大な啓示を受ける準備として、また罪を悔やみ神の前にその意向を表明する手段として、ある時は特別に悩みのある時に神の援助を祈る準備、困難なる事業を遂行するにあたり、神の恩寵を得るための手段とし教えられました。
しかし、これはどの宗教を問わず、どのような宗教行事においても起き得る事ですが、正しい動機で始まった宗教行為・行事を「反復・集中」して行うことがいかに困難でらうかは私達自身の経験でも明らかです。例えば聖餐を私達は毎日曜日毎、かかさず反復して、しかも一回きりの事として、その事に全身全霊を傾けて主の「御からだ」と「御血」を頂くことがどれほど困難であるかをよく知っています。ユダヤ教徒においてもそうでした。断食は本来の意義が忘れ去られ、形式的な宗教行事・宗教的功績となり、それをしない者は非難されるようになりました。
今日の福音書の舞台はまさしくそのような背景で起こりました。週に二回(月・木曜日)断食をしていたファリサイ派の人々や、禁欲的な生活を送り、たびたび断食をしていたヨハネの弟子にはイエスとその弟子が理解できませんでした。全く断食をしな
いばかりか、「食べたり飲んだり食べたり」ばかりしているイエスの弟子達は、ファリサイ派の人々や洗礼者ヨハネの弟子達から、「大食漢で大酒飲みだ」と言われたイエス(マタイ11:19)の弟子だけの理由はあると思われた事でしょう。
イエス様自体、食事を「神の国」の宣教を特徴付ける「しるし」とされたのみならず、宴会はイエスによって神の決定的な終末完成の「見えるしるし」として表されるものとされました。もちろん、ファリサイ派にしろヨハネの弟子にしろ、まともにイエス様に質問したのではなく、イエスの教えとその隆盛を妬んでの詰問であったことが想像されます。
イエス様は決して断食そのものを否定されたのではなく、預言者と同じく、その内部的意義を高調し(マタイ 6:16)、心の悲しみの記号であると認められておられました。しかし、その宗教的功績を獲得する為の業になりさがった断食は、受け入れ
ようとはされませんでした。特に今の時は、神の啓示が残されることなく凡てイエス様を通して啓示され、イエス様を見ることは神を見ることが出来る喜びの時、救いの時であって、苦行によって罪を免除してもらうという宗教的功績を期待する時ではな
いとされました。
ここで語られる「織りたての布と古い服」、「新しいぶどう酒と古い皮袋」の喩えは、本来は断食問題と関係ない独立した伝承(「トマスによる福音書」47にも存在する)がここに挿入され、断食問題を通して、イエス様の新秩序とユダヤ教やヨハネの弟子集団との古い秩序は、合い入れぬものであることが宣言されているようにも思えます。したがって古い布・古い皮袋は、ファリサイ派及びヨハネの弟子を指しています。
イエス様とその弟子たちが形式的な断食もせず、心のへりくだる罪人と共に宴会を楽しむことを良しとする新しい秩序は、古い形式に拘る民族宗教と相容れませんでした。またイエス様自身の固有の存在自体が指し示す新しい価値観のゆえに、古い価値観とは相容れませんでした。またこの個所はイエスの弟子集団内の古い律法と形式主義を尊重し、ユダヤ教の一部に留まろうとするグループへのいましめと、理解することは出来ると思われます。
この危険性は現在においても、あのイエス様がお教えになった生き生きとしたダナミックな教えが、教会において形骸化し、形式化していることで明らかであります。
歴史の中では絶えずこのような「キリスト教」を、「イエスの教えそのもの」に戻そうとする運動がなされてきました。例えば、近代日本でも聖職の権威化を批判し、既成教会の改革を目指し「新しい教会」を建設すべく一応聖職の制度を破棄した無教会
運動においても、指導者の学問的精神的実力から、自ら実質的には同じような権威関係生んでしまったように、いつの時代にもこのような運動は困難なものでした。
しかし、2000年の間、教会がいかに生き生きとした信仰失い、イエス様時代のユダヤ教の断食問題と同様に形式化し、宗教的功績に拘泥し、形骸化して来ていることをこのままにしておくことはキリスト教の自殺を意味します。
パリサイ人たちは、イエス様によって新しい時が到来したことを、古い形式に拘るがゆえに見分けることが出来なかったのです。現代においても私達はファリサイ派の人々と同じように、キリスト教という古い形式と伝統のみに拘だわるがゆえに、イエ
ス様の教えそのものを、正しく見分けることが出来ないでいるのではないでしょか。今一度、私達の間にイエス様の教えそののを取り返せねばならないのではないでしょうか。
イエス様の教えは福音、「よきおとずれ」と言われます。日本語の「おとずれ」の語源は「音連れ」だそうです。日本の古代の人々は神がそのところに来たときに、なにか音をもたらした、人々はその音を聞いて神を感じたことから「おとずれ」なる日本語が出来たそうです。私達は今日も、今も聖書を通して、イエス様の「音連れ」を聞いているのです。この「音」は私の、貴方の価値観を覆し、全く新しいものを生み出す「おとずれ」です。うちしおれた魂と体を新たにしてくださる「おとずれ」です。
全てがいきづまって、もうだめだと思うような時にも、側にいてしっかりと支えてくださる方の臨在を伝える「おとずれ」です。喜び、楽しみにある時、一緒にいて共に祝ってくださる方の「おとずれ」です。にもかかわらず、イエス様のお体であり、世に仕えなければならない教会自体が、この「おとずれ」を正しく宣べ伝えず、自らのためにのみ存在することに、自己保全にあくせくしている現状はイエス様のお体の形骸化と世から非難されてもしかたがないのではないでしょうか。
今一度、イエス様のみ教えに戻ろうではありませんか。あの一切の既存の価値観を新しくし、唯、神のみに栄光を帰し、「小さき者」「弱き者」「虐げられた者」「罪人」と共にのみ歩まれようとされたイエス様の歩みに私達の、教会の歩みを合わせようではありませんか。だれかの行動を待つのでなく、私達一人一人がその歩みをイエス様の歩調に合わせることから、真のイエスさまの教会の建設は始まることを忘れないようにしたいものと思います。
(2000年2月27日 伊東)