<サンパウロ通信>
 2001年8月


     
passaro1_100.jpg (5461 バイト) 「一人の老戦士の旅たち」

  

日曜日の午後、幼児の洗礼を頼まれて100km離れた町まで出かけて行っていた時、携帯電話が何度も鳴ったが受信状態が良くないのか、Onにすると切れてしまう。なにか胸騒ぎがして洗礼式の後、引きとめられるのを振り切るように帰宅した途端、電話機が鳴り、親のように慕っていた原一蔵兄弟の死がご子息から告げられた。
   
原さんは神奈川県の田舎の農家出身で小学校の時、地理で世界地図を見て海外雄飛の夢を持たれたという。渡航費を得る為、小学校卒業と共に東京に出て働かれた。この時期に原さんはキリスト教(聖公会)に出会われるのであるが、この間の事情を同人は次のようにかって書かれた。
   
「その後、働いている店の近くに路傍伝道の一団と行き会った。その中の一青年が私に教会はこの先で毎週日曜日と水曜日に集会がありますからお出でください。私は青柳と言う者で集会にはいつでも行っておりますのでお話にいらっしゃい、と言われて別れた。或る水曜日勇気を出して行ってみたら、青柳さんは日曜学校の先生で分かり易くキリスト教の話をしてくれた」。
   
こうして原さんは路傍伝道と伝道熱心な青年信徒青柳さんの導きで、当時「深川聖公会」(現在の聖救主教会)に連なるようになり、後に空襲で夫婦ともども焼け落ちる聖堂とともに運命を共にされた内田茂ニ長老(司祭)によって洗礼を授けられ、松井米太郎監督(主教)によって信徒按手礼(堅信礼)を受けられた。
   
昭和5年の暮れ、原さんは少年時代よりの夢であった海外雄飛をブラジルに求め、日本を離れられた。これは本人が後に親しい方に打ち明けられた事であるが、ブラジル行きを決めた背後には、なにかの切っ掛けで当時高まりつつあった軍国主義への原さんの批判が官憲の知る事となり、憲兵から尋問を受けた事も一因となったそうである。
    
原さんはブラジルでの呼び寄せ人の家で、くすしくもブラジル聖公会の伝道者として日系人伝道に一生を捧げられた伊藤八十二大執事に出会われ、その後、日系聖公会設立の為、伊藤師のかけがえのない協力者として活躍された。数年前に先立たれた絹江夫人が在命中はその家を訪れる人は絶えず、そのホスピタリティーは文字通りキリスト者としての偉大な証であった。どんな牧師よりも多くのあらゆる困難にある人々を自宅に迎え、慰め労われた。その事を思うとき牧師の端くれとして、原さんの人生の旅人へのもてなしのごく一部も真似できない自分の生活が恥ずかしい。
    
絹江夫人が亡くなられてからは一人住まいであったが、俳句会に出かける途中、気分が悪くなり、一人で病院に行き入院手続きまで一人でなし、そして亡くなられた。誰にも迷惑をかけず旅立ちたい、いうのが口癖であった原さんらしい死に様であった。享年93歳。
    
一人の開拓地のキリスト戦士が雄雄しく御国に旅立たれた。合掌。
     

サンパウロ 伊東
    


   

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