日本は3月の中旬というのに、雪が舞っている地方もあるようである。ブラジル冷夏から晩秋に一足飛びに移り、朝夕はセターを着込むようであるし、夜は布団が必要である。お陰で今年の夏は式服が汗でびっしょりになり、黒いキャソックが噴出した汗が塩になり、白黒の曼荼羅模様になることもほぼ無かった。
家内が実母の看護の為に、日本に里帰りして半月が経った。一人になったとはいえ、日頃から訓練(^^)を受けているので食事や家事で特に不自由と言うことはないが、里帰りは事が事だけに長期化することが予想され、教会に関しては少しうろたえている。妻がいる時は全く気がつかなかったことであるが、急に片目で運転を余儀なくされたように、フロントガラス越しの景色の視野が狭ばり、遠近感が少しさだかでなくなった。もちろん片目運転にもその内慣れてくるであろうが、不自由なことは間違いなく、しかもどんなに慣れても視野が狭くなり、遠近感が少し定かでないことは補い様がない。また、自動車の窓を閉めたように通りの物音も小さくしか聞こえなくなった。当然なことであるが日頃家内と為してきた教会活動に関する「ディスカッション」がなくなってしまった。教会運営や活動に関して雑談の中で妻と為してきた「ディスカッシオン」が途切れことは、「奉仕者」として牧会に致命的であるとすら思う。大げさな言い方になるかも知れないが、もし独り身になれば牧会を続ける自信はない。
しかし、考えてみれば牧師の妻はなんと損な役割であろうか。黒子に徹する
ことを要求され、夫の牧師からも日頃(私が為してきたように)、その働きを正当に評価されることは少ない。挙句の果て「牧師と知って結婚したんだから文句言うな」というひどい言葉を日頃投げかけられなければならないのであるから立つ瀬はない(あくまで私の妻の場合)。しかも居なくなることが無ければ、その存在価値もあまり、当の夫の牧師からも認識されないのであるから。せめてこの文章を家内に送り、自省を示し胡麻をすることにしようと思う。
サンパウロ 伊東